夜空には緑色に光る月が1つだけ浮かんで見える。他の3つの月は正面に位置する月の裏に隠れ、その光さえも遮られていた。
『イシュテナ、そちらはどうだ?』
『問題ない』
スーツ姿で地上を警備しているイシュテナの元に、空から監視をしていたエーデルクラウトの念話が届く。アンダーポニーテールに整えた髪を揺らして見上げると、そこにはシンの召喚獣である黒いフクロウ【ストラス】の姿があった。
「ラディウス法国には、虚無の魔導士に会いに行くそうだな」
「アキトから聞いたのか?」
「ああ。バーストン公爵の手配があるそうだが、そこまでして何をする?」
イシュテナが左腕を差し出すと、エーデルクラウトがそこに着地する。彼女はシンから預かっていた餌を渡すと、彼らが虚無の魔導士に会おうとする理由を聞く。
「私たちはアルヴヘイム王国から、この国に脱出してきた」
「聞いている」
「魔王軍がテトラ様を狙っているだけでなく、真偽不明の情報がいくつかある。それについての知見を彼女から貰いたい。イシュテナは何か聞きたいことはあるか?」
「そうだな。私は――」
(……本当にテトラ・ニヒルスと同じ無属性なのか?)
特に驚くことは無く、イシュテナはエーデルクラウトの回答に納得する。そしてテトラ・ニヒルスが自身と同じ無属性であることについて、改めて思考を巡らせる。
「イシュテナ、ここに居たのか」
「どうした?」
「ユースケから報告があった。参加者全員の受付と入場が完了した」
イシュテナとエーデルクラウトが話していた所に、定時連絡に行っていたシンが戻ってくる。受付を担当しているユースケとケビンから聞いた、参加者全員が入場したという報告を伝える。
「俺たちは引き続きここに残る。イシュテナは中へ向かってくれ」
「了解」
社交界が開始されるため、警備の人員を会場内に集めるようにシフトする。イシュテナはシンの指示に従い、会場内にいるアキトたちの元へ向かった。

「ピョートル伯爵、この度はありがとうございます」
「情勢が情勢さ。孤児院新設は前倒しで進めてるよ」
「はい。その件についてお話があるのですが……」
会場での挨拶が一段落付いた頃、ピョートル伯爵は老貴族のコッチ男爵に呼ばれて席を外す。残されたカナは彼が連れてきた1人の少年……事前に話が上がっていた婚約者と、ついに対面することになる。
「初めまして。グリドリン・ベルトランドです」
「こちらこそ、初めまして。カナ・C・バーストンです」
「「……」」
栗毛の少年貴族……グリドリン・ベルトランドがカナに挨拶する。婚約者になる予定とはいえ、お互い初対面ということで緊張のあまり無言になってしまう。
「……あの、もしかして緊張されてます?」
「ええ、お恥ずかしながら」
(良かった。不安だったのは、私だけじゃなかったんだ)
相手が緊張している様子にカナは少し安心する。年齢もほぼ同じで物腰も柔らかいこともあって、グリドリンの第一印象に嫌悪感はなかった。
「それでも婚約者として、カナ様の支えに――」
「えっと、その婚約の件なんですけど……」
(年も近いし、悪い人じゃなさそうだけど……やっぱり婚約なんて、まだ早いよ)
「ごめんなさい! 婚約はできません!」
「そんな、なぜですか!?」
離れたところから見守っているアキトとシーリスに少しだけ目を向け、カナは頭を下げながら自分の意志を伝える。グリドリンは断られるとは思っていなかったのか、驚きの声が会場内に響く。
「あの違うんです。まずは――」
「いやー、さすがカナ様は分かっておられる! どうです、私の元へ嫁ぎませんか?」
「おい、お前はもう結婚しているだろ!」
グリドリンの反応にカナは必死に弁明しようとするが、それを遮るように話を盗み聞きしていた貴族たちが割って入る。
「ちょっと待って――」
「それなら私の息子はどうです?」
「まだ僕が――」
「お前の息子は10歳だろ、認められるか!」
さらに別の貴族が割り込み、次から次へとカナへ詰め寄っていく。グリドリンが仕切り直そうとするも、大勢に押しのけられて声もかき消されてしまう。
「え、え?? いや……あの……」
(このままでは、婚約が流れてしまう。かくなる上は……)
カナは混乱して、まともに受け答えする事ができずに立ち尽くしている。彼女は会場内の警備をしているアキトとシーリスに目線で助けを求めるが、彼らより先にグリドリンが状況の打破に動いた。
「皆さん、こちらの話はまだ終わっていません!! カナ様に詰め寄るのはやめてください!!」
グリドリンが大声を出して貴族たちを制止する。彼らに翻弄されて狼狽えていた年相応の少年の面影は消え、貴族の1人として立ち振る舞う堂々とした姿を見せる。
「カナ様、改めてお聞きします。僕と婚約していただけませんか?」
(助かったけど、なんだかさっきとは雰囲気が違う……)
グリドリンの一声で貴族たちは静まり返り、改めて婚約を要求する。カナは彼に対して感謝はしていたが、先ほどまでとは違う威圧感を含んだ口調に戸惑いを隠せなかった。
(そうだ婚約……断る? でもそうしたらまた……)
心臓の鼓動が早まり、焦りと不安が沸き上がる。断ればまた貴族たちに迫られるが、婚約に対する不安も解消されていない。それでいて今この場で宣言しなければならないという焦りが、カナの判断力をさらに鈍らせていく。
「不治の病で成人まで生きられないと言われていた貴女が、完治して今この場にいることは奇跡です。ですがその代償として、立場に見合った経験を積めなかった」
(そうだ私、本当は……だったら、彼の言う通りに……)
「貴女を知る者は、奇跡の子として一目置くでしょう。その中には、秘密を知りたい者、その評判を悪用したい者が紛れ込む……ですから僕が貴女の夫となり、生涯支え続けると誓いましょう」
「はぁはぁ……わ、わた……私、は……」
グリドリンが語ったカナの経歴は全て事実だった。それもあって彼女の動揺はさらに大きくなり、だんだんと思考が定まらなくなっていく。彼の言葉を聞くたびに胸が締め付けられ、焦燥感とともに呼吸も荒くなる。
(カナさんにそんな過去が……いや、それより今は)
『シーリス、早くカナさんのところに!』
『分かってる』
暴露されたカナの過去に驚いている暇などなく、彼女の不安に押し潰されそうな表情にアキトとシーリスは動き出す。このままでは圧力に屈して、彼女が婚約を受け入れてしまうのも時間の問題だった。
「……これは何のマネですか?」
「これ以上、彼女に近づくな。さもなくば……斬る」
2人より先に動いたのはイシュテナだった。会場内に到着すると周囲の群衆に紛れ込み、背後から近づいてグリドリンの首元に短剣を突き付ける。それと同時にアキトとシーリスがカナの元に到着する。
「僕に刃を向けるとは、どういうことかお分かりですよね」
「イシュテナ、剣を下げて」
婚約を強要されている状況とはいえ、伯爵家の子息であるグリドリンに危害を加えることはできない。アキトの指示を聞いてイシュテナは短剣を降ろすが、即座に対応できるように警戒は続ける。
「ひっ……あ、あの……」
「この非礼、いくらバーストン公爵家のご息女と言えど――」
「左手に隠している低出力の幻覚魔法……それでカナさんの感情を乱していますよね」
追い詰められたカナは、湧き上がる焦燥感から声が出なかった。しかしそれはグリドリンが放つ幻覚魔法によるものであると、ラプラスの魔眼で看破したアキトが指摘する。
「そんな!? 最低ですよ、無理やりなんて!」
(これ以上何かをするようであれば、カナを離脱させるべきか)
シーリスはグリドリンの行為を非難しながら、カナの頭を抱きかかえて魔力による干渉を遮断する魔法【精神障壁】を展開する。イシュテナも警戒を解かず、いつでも彼女をテレポートで転送できるよう身構える。
「まったく、言いがかりも甚だしい」
「言いがかりではありません。アキトさんは……アキトさんには、ラプラスの魔眼があるんですよ!」
あくまでもシラを切るグリドリンに対し、精神状態が戻りつつあったカナがラプラスの魔眼が証拠だと突き付ける。彼は一瞬だけ眉をひそめると、魔法を解除して隠蔽を図る。
「あらヤダ。ベルトランド家って野蛮なのね」
「バーストン家への謀反ともなれば、大問題ですねぇ」
その様子はアキトには筒抜けだったが、指摘するよりも先に周りの貴族たちがグリドリンに疑いの目を向け始める。ベルトランド家が失脚してくれる方が、彼らにとっては都合が良いいのだろう。
「不愉快です。そこまで言うのでしたら、どちらが正しいか決闘で決めましょう」
「良いですよ。受けて立ちます」
「何を言っている。君は平民だろう? 決闘とは貴族と貴族の名誉をかけた戦いだ」
不利になる状況と平行線をたどる話し合いに決着をつけるため、グリドリンは決闘という選択肢を提示する。それをアキトが受けようとするのだが、貴族ではないことを理由に一蹴されてしまう。
「君が彼女の代わりに戦うのは構わない。だけど決闘を受けるのは彼女自身だ」
「……分かりました。私がその決闘を受けます。そして、アキトさんに託します」
「よろしい。ならばこちらも、相応の相手に頼むとしよう」
グリドリンの言葉を受けて、カナ自身が決闘を受ける決意を固める。アキトもそれを了承したところで、事態を知ったピョートル伯爵が人混みをかき分けて戻ってくる。
「ハイハイ、そこまで! まったく、決闘だなんて」
「既に決まったことです。立会人はリオール領主の貴女にお願いしたい」
「勝手は承知ですが……」
「分かったよ」
事態を収拾するためにピョートル伯爵が仕切ろうとするが、グリドリンに決闘の立会人を請願される。そしてカナも同意していることが分かったため、彼女は貴族として立会人を引き受けるしかなかった。
そして決闘は翌日の朝、街の外にある平原で行われることとなった。
【設定紹介】
セレスフィルド連邦の南西部に位置する領地。
元々はラディウス法国との緩衝地帯に位置する小国で、氾濫戦争時に王家が滅んでしまったため連邦に編入した。
領主は旧国家の大臣家などの有力貴族が交代で選出されており、同じように大国との緩衝国だったバーストン領とは協調路線を取っている。
貿易都市リオール、麓村クーパル など
グリドリン・ベルトランド、ピョートル伯爵、コッチ男爵 など
第2章1話:貿易都市リオールがカナの疎開先として選ばれる
国から特権や名誉を与えられた身分階層。
制度の詳細は採用している国によって異なるが、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の序列があり、その下に士爵という一代限りの階級があるのは共通している。
セレスフィルド連邦は領ごとに選挙で領主や政治家を選出する仕組みになっているが、影響力の観点から貴族が選ばれることが多い。
極端な例だが、バーストン領領主はバーストン公爵家一強の状態になっている。
バーストン公爵、ピョートル伯爵 など
序章2話:カナがバーストン公爵家の令嬢と判明したとき

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