01-22 海に呑まれる精神

body of water

 無限に広がる海……なんで僕はこんなところにいるんだろう。360°どの方向を見ても水平線の先まで海が広がっており、空は真っ白に塗りつぶされた不思議な場所だった。

「ここは、あの時見えた海?」

 意識はあるし、手足の感覚もはっきりと知覚している。なぜ海の上に立っているのかは分からないが、歩いても波紋が一瞬だけ表れるだけで不気味なほど静寂だった。

「立って歩ける……海に見えるけど、水じゃないのか?」

 そして身を屈めて手を伸ばしてみると、何の抵抗もなく浸かっていく。だが水に触れた冷たい感覚と共に、腕を伝って“何か”が這い上がってくる感覚があった。

「うわっ」

 その未知の感覚に思わず腕を引っ込めて立ち上がると、直前まで自分がしていたことが脳裏に浮かぶ。手に残った水の感覚が生暖かいものに変わり、何も掴んでいないのに手の平から鼓動が伝わってくる。

「そうだ。僕は、僕は……」

『人を殺した』

 頭の中に声が響いたかと思うと、目の前には僕自身が立っていた。この世界に転生する前の、学生服に身を包んだ“僕”が……。

「君は、僕なのか?」

「違う! お前は僕じゃない!」

 突きつけられた真実から逃れるように、僕は目の前にいる“僕”に問いかける。さっきの一瞬は無表情だった“僕”の顔は恐怖で引きつり、震えた声で何かを否定する。

「待って、僕は」

「く、来るな……こっちへ来るな!」

 自分自身に拒絶されて、僕は後ずさりする“僕”を引き留めようとする。そして伸ばした手を見て初めて、僕は自分の醜悪な姿を知る。

「ひっ、なにこれ。さっきまで何ともなかったのに」

 伸ばした右腕は肘から先がズタズタに裂かれており、そこから溢れ出た血で赤黒く染まっていた。撃たれた左手からも血が垂れ落ちており、水面に映った僕の顔は瘴気に侵されて左目周辺の皮膚がただれていた。

「あ、ああああ――ッ!」

 訳が分からなかった……手の平から伝わる鼓動が激しさを増し、僕はすぐさま右腕を海の中へ突っ込む。一心不乱に右腕をさすって血を洗い落とそうとするが、いくら激しくしても血が落ちることは無かった。

「なんで……なんで落ちないんだ!」

 右腕はどんどん熱くなり、何もなかったはずの海中で何かを掴む感覚がはっきりと伝わってきた。目の前にはあの吸血鬼が倒れており、僕はあの時と同じように心臓を握っていた。

「何で異世界から来たお前なんかに、殺されなきゃなんねえんだよ!」

 吸血鬼から恨み節をぶつけられると同時に、周囲の風景が目まぐるしく変わっていく。通学で毎日通る交差点、帰宅する生徒で賑わう校門前、よく買い物に行くショッピングモール……どれも元の世界の見慣れた光景だった。

(おい、人殺しがいるぞ)

(よく平気な顔して人前に出られるな)

(やだ、こっち来ないでよ)

(そのまま二度と帰って来るな)

 その時と同じように僕自身もそこにいるはずなのに、そこにいる全員が侮蔑の眼を向けてくる。僕はこの場から逃れたい一心で走り出すが、すれ違うたびに聞こえないはずの相手の思考が流れ込んでくる。

「ここはどこなんだ……なんで、こんなことになるんだ」

 この異常な空間がどこなのか、何で僕がいるのか、もしかしたら気が狂ってしまったのではないか……どんなに考えても答えは出なかった。

「誰か、誰か助けて……」

 走っている間も次々と変わる風景に方向なんてないはずなのに、気付けば僕は自宅の玄関を開けていた。そして目の前には、本当に今まで通りの両親の姿があった。

「アキト、お帰り。今日はハルトより遅かったんだな」

「夕飯はもうできてるから、先に着替えてきなさい」

 仕事から帰ってきた父さんがリビングでくつろいでいる。母さんもいつものように学校帰りの僕に制服を脱ぐように言う。

「お帰り。借りたいって言ってた本、机の上に置いといたよ」

 部屋から出てきた兄さんの姿を見て、僕は自分が異世界にいることを忘れそうになる。このまま家族のもとへと駆け寄りたい……なのにどうしても、僕はその場を動くことができなかった。

(た――)

「ただいま」

 ようやく声を出せた時、聞こえてきたのは“僕”の声だった。さっきの様子とは打って変わり、いつものように家族と夕食を食べながら談笑している。

「ああそうか……これは、僕の願いなんだ」

 人を殺した……その罪から逃れたくて、僕はあの日に帰りたかったんだ。だけど、そこにいることができるのはかつての“僕”であって、今の僕じゃない。

「アキト、ここにいたのか」

「シンさん?」

 後ろを振り返ると、今度はシンさんが立っていた。何でここにいるのかは聞かなかった。僕は家族の声に後ろ髪を引かれながらも、彼のもとへ歩き出した。

――――――――――

 アキトがマリクを殺したことで、戦況はクロムウェル隊に傾いた。ゲシュペンスト隊以外の部下全員と空戦型キマイラを1頭失ったこことで、ロザリア率いる追跡部隊は撤退を余儀なくされた。

 だが、クロムウェル隊の被害も少なくはなかった。騎士の1人が戦死し、アキトとエーが重傷を負った。他の者も大なり小なり負傷し、渓谷を抜けた先で治療に追われながら一夜を明かした。

「エー、脚の様子はどうだ?」

「やっぱ他人の脚は違和感が半端ねえぜ」

「治るまで辛抱だな」

 ジェイコブ隊長は外傷こそ切り傷を負ったのみだが、盾と鎧を失っている。ロザリアに右脚を切断されたエーは、損傷の少ない死体から剥ぎ取った脚を接合して義足としている。

 それを離れたところで聞いていたアキトは、包帯を巻いた両手を無気力に眺めている。

「魔力のオーバーロードか……」

 闇の瘴気を受けた顔の左半分と銃弾が貫通した左手とは別に、アキトの右腕にも包帯が巻かれていた。それは魔力の過剰放出【オーバーロード】によって、内部から破裂した皮膚を治療した跡だった。

(他人の体組織でも、代謝によって同化する……僕の治療に使った人体修復材も、その現象を利用したものって聞いたけど)

 この世界では移植した他人の脚でも、時間が経てば自分の元々の脚と同じ状態まで戻るらしい。アキトはその驚異的な代謝能力が自分にもあるのか考えてみるが、それよりもあの謎の空間での出来事のことが頭から離れなかった。

(……結局、覚悟なんて何もできてなかった)

 心臓を押し潰すほどの不安と罪悪感がアキトを襲い、振り払おうとすればするほど重くのしかかる。そんな時1人でどこかへ行こうとするシンを見つけて、思わず声をかける。

「シンさん、どこか行くんですか?」

「食料を補充するために狩りに出る」

「……僕にも、何か手伝えることはありますか?」

「怪我してるんだ。無理しなくていい」

 両手を怪我している状態では、大して役に立てないことは分かっている。かといってじっとしていても気分が沈むだけなので、アキトはどうしてもシンに付いて行きたかった。

「シンさんだって、怪我してるじゃないですか」

「……好きにしろ」

 シンが着ている防寒着の裾から、包帯を巻いた腕が見える。それはキマイラの吐いた炎のブレスを防ぎきれずに負った火傷を治療した跡だった。

 指摘されたシンはポケットの奥まで左手を入れると、観念してアキトの同行を認める。

……

…………

「……」

 2人は無言のまま、雪に覆われた森の中を歩いて行く。風の音もしない静寂に、雪を踏みしめる音だけが響いていた。

「シンさん。この世界に死者を蘇らせる魔法ってありますか?」

「そんなものは無い」

 しばらくして、アキトが蘇生魔法の存在を尋ねる。それは罪の意識から逃れたいためだったのかもしれないが、あっさりとシンに否定される。

(そうだ。シンさんは、僕と会う直前に弟さんを……)

 魔法が存在する世界でも、死者を蘇生させることはできない。アキトは王都アルヴリアでシンの弟が殺された話を思い出し、軽薄な質問をしてしまったことを後悔する。

「だからこそ、アキトが生き残って良かったと思ってる」

「でも、僕は人を……」

 自分が死ねばよかったとは考えてはいない。だけどアキトはシンの言葉を素直に受け止めることが出来なかった。

「後悔しているのか?」

「……後悔はしていません。死にたくなかったし、今でもあれがあの時できた最善の行動だと思っています。でも、心が追いつかないんです。自分が人を殺すなんて……そんなことが出来る人間だなんて、考えたこともなかったから」

 アキトはこの時初めて、自分の中で感じていた感情を言葉として吐き出した。無理やり抑え込もうとしていた反動か、段々と溢れ出してくる感情に全身が震える。

「元の世界に帰りたい。転生なんかしてなくて……何もかも夢だったらって」

「そうだな。俺も夢だったらって思ったさ。でも、これは現実なんだ」

 気付けばアキトは両手で自分を抱き、涙で顔がぐちゃぐちゃになっていた。優しく声をかけてくれるシンに縋り付きたくなるが、彼の言葉がそれを押しとどめる。

「嘆いたところで、俺たちが置かれている状況が良くなるわけじゃない」

「それは、そうですけど」

「考えたくないなら後回しにしたって良い……ただ、生きることは諦めないでくれ」

 シンの言葉を聞いて、アキトは今一度自身の本心を振り返る。人殺しという一線を越えた自身に対する罪悪感と嫌悪感……それとは別にあの状況では最善の行動だったと判断を下す思考……。

「諦めませんよ。もう1度死んでいるんですから」

 それが、溢れ出す感情と理性をかき分けてたどり着いた答えだった。簡単に2度目の死を受け入れるほど、アキトは自分の人生に満足していなかった。

「それで良いさ……」

「シンさん?」

「さて、遅くならないうちに食料を調達するぞ」

 答えを聞いたシンは、どこか穏やかな表情を一瞬だけ浮かべる。その顔を隠すように森の中へ向かう彼の元へ、アキトもまた歩き出した。


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