真っ白な空間……気が付いたら僕はそこにいた。肉体の感覚はなく、まるで全身が空間に溶け込んでいるような状態だった。
『貴方の願いはなんですか』
頭の中に声が響いてくるのと同時に、とてつもない存在感を持つ何者かが目の前に現れた。その声は男性のような女性のような、はたまた老人や子供のような……意識を少し変えるだけでどのような声にも聞こえた。
これが、いわゆる神様という存在なのだろうか?
『転生によって、貴方の願いを叶えましょう』
朦朧とした意識の中でも、仮称神様の言葉ははっきりと聞こえていた。転生ということは、僕は死んだのだろうか?
でも、いくら思い返しても死んだ時のことを思い出せない。死んだという実感はないはずなのに、僕は不思議とこの不可解な状況を受け入れていた。
『さあ、貴方が本当に望む願いを』
この時、僕は何を考えていたのだろうか?
日常のたわいもない願望……漠然と考えていた将来の夢……死に際に感じたであろう生への執着……それとも、転生したらやりたいことについてだろうか。
「僕は……僕の願いは――」
どのくらい考えていたのかは分からない。気付いた時には僕は願いを告げていた。そして神様の存在感がさらに膨れ上がっていくのを感じながら、僕の意識は真っ白に塗りつぶされた。
『それでは、貴方に第2の人生を』
こうして、僕は異世界に転生した。
――――――――――
――神暦9102年3月4日
狭霧アキト……その名前が初めて歴史に現れたのは、世界が魔王の再臨によって混乱している渦中のことだった。森の中を駆ける1台の馬車に、彼は護衛の1人として乗り込んでいた。
(魔法とは、魔力を変換・操作してマトリクスという高次構造体を構築することで発現する現象の事であり――)
黒いドクターコートを着た眼鏡の少年……狭霧アキトは、荷台の中で乗客に混じって休憩していた。彼が馬車の駆ける振動を感じながらのんびりと本を読んでいると、いきなり大きく揺れた振動が伝わってきて馬車が停車した。
(何かあったのかな?)
この森を抜ければすぐに目的地である都市へ着くため、この場所で停車する予定など無かった。アキトは読んでいた本を荷物の脇に置き、ずれた眼鏡を直しながら外の様子を確かめようと立ち上がる。
「君たち、いきなり飛び出してきて何のつもりだ!」
外から馬車の運転手である商人の声が聞こえてくる。そのただならぬ様子に、アキトは御者台に通じる小窓を開けようとした手を思わず止める。
「おっと、痛い目に遭いたくなかったら大人しく積み荷を渡しな!」
野太い男の声と共に、武器を構えたのか金属音も聞こえてくる。その正体は武装した盗賊の集団だったらしく、貨物を奪おうと馬車を取り囲もうとしている。
(盗賊……何人いるんだろう?)
聞こえてくる声からアキトは外の様子を考えていると、先ほど開けようとした小窓が外から開けられる。開けたのは商人と一緒に御者台に座っていた黒髪の青年であり、小声でこちらに話しかけてくる。
「アキト、敵は5人だ。うち2人がそっちへ向かってる。任せたぞ」
「分かりました」
アキトは壁に立てかけていた身の丈ほどある木製の杖を手に取ると、耳をすませて外の音を聞く。青年の言う通り足音が2つ、荷台の方へ向かっているのが聞こえる。
「へへ、中身は何かな!」
「このサイズの馬車だ。たんまり貯め込んでるに違いねえ」
外から聞こえる盗賊たちの声が段々と近づいてくる。乗客たちの不安は膨れ上がり、声を押し殺しながら荷台の後部にある扉から離れるようにゆっくりと移動していく。
「お母さん……」
小さな子供は不安から母親に縋りつき、父親が妻子を守るように扉を見つめている。他の乗客たちも盗賊に怯える中、アキトは扉に近づきながら左手で杖を水平に構える。
そして右手の手の平から青色に淡く光る靄【魔力】を放出すると、それがいくつかに凝集して正八面体に近い形状の塊となって周囲に浮かぶ。
「家畜……いや奴隷かな?」
「かわい子ちゃんだといいよなあ」
荷台が揺れたことで盗賊たちは、この馬車が家畜か奴隷を運んでいると推測する。家畜であれば食料に、奴隷であれば売って金にすることができる。その奴隷が女性であれば……と妄想しながら荷台の扉に手をかける。
「それでは、御開帳――」
そこで盗賊たちが目にしたのは妄想していた積み荷ではなかった。開けた扉から差し込む光に逆らうようにして、幾多の魔力で形成された弾丸【魔力弾】が飛んでくる。
(まずは1人)
扉を開けた盗賊は完全に無防備な状態のまま、胸部に全ての魔力弾が直撃して吹き飛ばされる。横にいたもう1人の盗賊が不意打ちされたことに気付くが、アキトは既に杖の先端に魔力の刃【魔力刃】を形成しており、間髪入れずに胸元に突き刺しに来る。
(浅いか)
「てめえ!」
反射的に魔力を集中させたのか、刃が深くまで刺さることは無かった。盗賊が怒り任せに剣を振り上げて来るので、アキトは魔力刃を切り離して回避する。
(これで2人)
その瞬間、魔力刃に込められていた重力魔法【グラビティ】が発動する。盗賊の身体にかかる重力が増大し、抵抗できずに地面に叩き付けられる。先ほどの魔力弾にも同じ魔法が込められており、2人の盗賊は地面に倒れたまま動けなくなった。
「シンさん、こっちは終わりました」
2人を無力化したことを確認したアキトは、盗賊たちを放置して馬車の先頭へと急ぐ。その声に反応したのは、呼びかけられたシンという黒髪の青年と盗賊のリーダーと思われる角の生えた男だけだった。
「後はリーダーだけだ。流れ弾が馬車に当たらないように注意しろ」
「はい」
他の盗賊は既にシンの持っている槍によって斬り伏せられ、5人いた盗賊も残りはリーダー1人となっていた。
「よくも、よくも仲間たちを!」
仲間が全員倒されたことで、盗賊のリーダーは激怒する。拳に力を籠めると、魔力が凝集していくのがアキトには見えた。それは魔法を使う合図であり、男の拳が何もない空間を殴りつけることで衝撃波が発生する。
「無駄だ。大人しく投降しろ」
「なめんじゃねえぞ!!」
狙われたシンが魔力の盾【シールド】を形成して衝撃波を受け止める。形勢が不利になっても盗賊のリーダーは諦めておらず、降伏勧告を無視して抵抗を続ける。
「ウオオ――ッ!」
盗賊のリーダーが雄叫びを上げて全身に魔力を込める。すると一瞬にして全身の筋肉が膨れ上がり、元々筋肉質だった身体がさらに1周り以上も大きくなる。
頭の角もより大きくなり、盗賊のリーダーは完全な食人鬼【オーガ】へと変身を遂げる。
「――!?」
その姿にアキトは反射的に魔力弾を放つが、踏み込まれたことで回避される。その脚力は地面を割り、オーガは彼に標的を変えて肉薄する。
「させるか」
「邪魔をするな!!」
そこへシンがアキトを庇うように割って入る。オーガは力任せに腕で薙ぎ払い、剛腕と共に衝撃波を叩き込む。その威力は先ほどとは比較にならず、展開されたシールドもろとも彼を吹き飛ばした。
「シンさん!」
「小僧、次はお前の番だ」
オーガは残ったアキトを威圧し、ありったけの魔力を腕に集中させる。溢れ出す魔力は炎に変わり、拳だけでなく腕全体を覆うほど大きくなっていく。
(シンさんが戻るまで、僕が馬車を守らないと)
シンが庇ってくれたことでできた隙に距離を取りつつ、アキトは相手の様子を観察する。オーガの腕では溢れ出す魔力が次々と炎に変換されていく。それでも魔力の全てを炎に変えているわけではなく、腕の表面に魔力が纏わりついて別の魔法を準備しているのが“視える”。
(オーガの腕力に炎を乗せた衝撃波……余波でも馬車を壊すには十分だ)
「だけど僕には盾がある。自分だけじゃない……皆を守る盾が」
どんな攻撃が来るのか分かるのなら対策のしようがある。アキトは杖を軸にして厚みのある黒色をした特殊な魔力の盾【シュヴァルツシルト】を形成すると、腰を落として正面に構える。さらに自身にグラビティをかけて重力を増大させることで、押し切られないように備える。
「潰れちまいな!」
オーガの渾身の力で撃ち込まれた拳と共に、纏った炎が衝撃波に乗って襲い掛かる。衝突によって勢いよく昇る火柱がその威力の凄まじさを物語る。
(お、重い……気を抜いたら吹き飛ばされる)
両足が舗装にめり込みながらも攻撃を受け止めるアキトは、グラビティによる重力場を強めて対抗していく。剝がれた舗装が足と一緒にその下にある地面に埋まっていくが、彼は更に更にと重力場を強めていく。
「……捕まえた」
「なに!?」
膠着状態のさなか、グラビティによって拡大された重力場がオーガを捕らえる。急激に増大した重力に抗おうとするが、そこから抜け出すことはできなかった。
それでもなおオーガは重力場の中で姿勢を維持し、その眼光でアキトを威圧する。
「ハァハァ……まだ動けるのか」
グラビティの範囲から抜けたアキトは息を整えながら、オーガに向けて右手をかざす。そこから放出した魔力で魔法を発動させ、周囲の空間を少しずつ歪ませていく。
「何だ……小僧、何をしている」
身体が空間ごと歪んでいき、オーガは自分の身に何が起こっているのか分からず狼狽する。その問いに答えることなく、アキトはゆっくりと手を閉じていく。
それに従い空間はさらに一点に向かって歪んでいき、オーガは全身があらゆる方向に捻られる苦痛に感覚が支配される。
「抵抗を止めて、投降してください」
「するわけねえだろ。バーカ……」
降伏勧告に応じなかったことで、アキトはかざした手を完全に握り締める。それにより歪んだ空間が一点に収縮して漆黒に染まる。全身が強大な力によって捻られる痛みに耐えきれず、オーガはそのまま意識を失い地面に倒れた。
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